飢饉

 世界には、食べ物がなくて飢えている人は、八億人を超えています。子供達にとっては、そのことは、もっと深刻で、紛争地域では、食べ物が十分でなく、命を落とす子がたくさんいます。紛争ゆえに人道支援も手が届かないのです。お腹ばかりが膨らみ、手足の骨が目立つほどに痩せて、力なくしている子の姿は、痛ましい限りで、目を覆いたくなります。私たちにとって、この世界が全てであれば、普通の生活ができないことが最も不幸なことであると考えられます。しかし、聖書は、私たちが測る幸せの尺度とは別の幸せについて教えています。聖書には、次のような記事が記されています。

 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。−聖書−

 一人の貧乏人は、金持ちの門前にいましたが、金持ちのきらびやかな生活とは対照的に、食べる物さえありませんでした。犬を追い払う力もないような状態でした。このような人は、いわば最も不幸な人の一人です。しかし、この人は、永遠に幸せです。なぜなら、彼は、偉大な信仰者としてのアブラハムと同じ信仰を持っていた人であって、彼は、飢え死にしましたが、永遠の天に迎えられて、そこで慰められたのです。さらにいうならば、彼は、苦しみの人生においても幸せでした。彼は、天に行くことを望みとして生きることができるからです。死を目の前にしても恐れることはありませんでした。

 金持ちは、これ以上ないという贅沢な暮らしをしました。しかし、不幸でした。彼には、信仰がなかったのです。神様の存在を認めず、門前のラザロという貧乏人に少しの憐れみをかけることもありませんでした。彼の生き方は、死んで後に裁かれるのです。彼は、永遠の苦しみを経験しなければなりません。

 聖書は、私たちが永遠の命を持つことができることを教えています。それは、私たちの人生を満ち足りたものにします。それは、経済的な理由や健康的な理由で損なわれることはありません。死によっても損なわれることはありません。そのことは、歴史の中に多くのクリスチャンが経験したことです。天を望みとして生きることは、大きな力です。私たちの人生を豊かにします。聖書は、本当の幸せは何かを教えてくれます。