迷い出た羊
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。(聖書)
私たちの身近な動物で、例えば、飼い猫が迷いでて、四、五日立っても帰ってこないとしたら、飼い主は大変心配するのではないでしょうか。また、震災などで、多くの牛を残して避難しなければならないとすれば、牛を大事に育てた方の心の痛みの大きさを思わされます。聖書には、迷い出た羊について記されています。羊が迷いでたその時、羊飼いのとった行動は、見つけるまで探し歩くことでした。たといそれが百匹の中の一匹であったとしても、かけがえのないものなのです。この迷い出た羊は、神様の元から離れた私たち一人ひとりのことです。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。(聖書)
天には、大きな喜びが起こります。
しかし、迷いでた羊にとっては、今いる場所も、自分の置かれた状況もわかりません。そのように、私たちは、牧者のもとに帰るまで、わからないのです。迷子なのです。私たちは、どこから来てどこへ行くのでしょうか。
初めに神が天と地を創造された。(聖書)
すべてのものを造られた創造主がおられます。
なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(聖書)
私たちは、神を知り、神と交わることができるものとして造られました。神は愛です。私たちが愛を理解できるのも、神が私たちを造られたからです。そして、神を知ることができるものとされたからです。
しかし、みな迷い出てしまいました。神などいないかのように振る舞って、罪を犯したのです。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。(聖書)
神の元を離れて、人は、自由になったでしょうか。いいえ、満たされることなく、真の喜びを失ったのです。
というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。(聖書)
私たちが、真に満たされるのは、神の元に帰ったときです。
イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(聖書)
迷い出た私たちを救うために、おいでになられた神の御子イエス・キリストのもとに来て、この方を信じて、初めて満たされます。羊を探していた牧者は、この方です。私たちを罪とその裁きから救い、いのちを与えるために、十字架にかかって死なれたのです。迷い出た者を命に代えて救うために。そして、私たちを神との交わりに回復するために。ぜひ聖書が与える救いを獲得していただきたのです。