良い牧者

さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。(聖書)

 聖書には、羊飼いと羊のたとえ話がいくつか記されています。羊は、迷い易くしばしば自分の行き先を見失います。イエス様が語られた一匹の羊は、私たちの姿をたとえています。私たちは神の元を離れて、迷い出ています。もちろん、自分の生き方を生きている方は多いと思いますが、それでも、神がいることを知らない人生は、神から離れている状態です。それは、あてどなくさまよう羊に似ています。自由な生き方のように見えますが、目的が無いのです。当面の目的はあっても、生きる目的、自分の存在の意味が分かりません。自分を愛し、心配している羊飼いの愛を見失なっています。

 羊飼いは、羊を見つけるまで探します。そして、自分ひとりで喜びをしまっておけないほど喜びます。神にとって、私たちは、大変尊い一人一人として覚えらています。この羊飼いは、私たちを救うために天から人となってこられたイエス・キリストです。

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(聖書)

 羊飼いは、イエス・キリストです。私たち羊のために命を捨てました。それは、神の前に、罪人である私たちが神の裁きによって滅びることが無いために私たちに代わり、神の裁きを受けるためです。神から離れた生き方は、神の前に清算されなければなりません。神は、私たちのを罪のために私たちを裁くのでなく、代りに、キリストを裁かれました。それが十字架です。

 羊飼いは、羊を命を捨てるほどに愛しました。私たちは愛されています。

 神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(聖書)

 私たちが罪の裁きを受けて滅びるのではなく、永遠のいのちを持つために、御子イエス・キリストを与えてくださいました。愛の大きさは、その犠牲によって知られますが、神は、御自分の御子を犠牲にする大きな愛によって私たちを愛されました。イエス・キリストを信じる者は、罪の赦しと永遠のいのちを持ちます。