目から鱗が落ちる
「目から鱗が落ちる」ということわざを知っていますか?
何かがきっかけとなって、急に物事の実態などがよく見え、理解できるようになった時に用いることわざで、使ったことのある方もおられると思います。
それでは、あなたはこのことわざの由来・語源をご存じでしょうか?実は聖書から引用されたことばです。
「するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。」(使徒の働き9章18節)
このサウロという人物はユダヤ教に人一倍熱心で、旧約聖書に書かれてあるモーセの律法を守り行うことで神に受け入れられ救われると固く信じていました。ところがイエスの弟子たちが、十字架にかかり殺されたはずのイエスがよみがえったこと、またこのイエスこそキリスト(救い主)で、この方の御名を信じる信仰によって救われると宣べ伝え始めました。サウロはイエスをキリスト(救い主)と認めず、弟子たちがモーセの律法に反することを宣べ伝えると考え迫害し、男も女も捕らえて牢に入れていました。
ある時、今まで以上にイエスの弟子たちを脅かして殺害しようとダマスコという町に向かっている途中、突然、天から光が彼の周りを照らし「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」とのイエス・キリストの声を聞いて目が見えなくなってしまいます。三日間、目が見えませんでしたが、イエスが本当によみがえったことと自分の方が間違っていたこと、そんな罪深い自分のことをも神が愛して下さっていることを知って回心します。そして自分が神のために働く選ばれた器であることが示され、アナニアという人がサウロの上に手を置いた時、目から鱗のような物が落ちて目が見えるようになり、イエス・キリストを迫害していた人生からイエス・キリストの救いを宣べ伝える者に変わりました(以降、別名のパウロと呼ばれるようになります)。
ところであなたは、このことわざの通り目から鱗が落ちて回心したパウロが宣べ伝えたイエス・キリストについて、どのくらい知っておられるでしょうか?
・キリスト教の開祖
・弟子のユダに裏切られて十字架にかかって死んだ人
・2000年も前の歴史上の人物で、今を生きる私たちには関係のないこと
と、思っておられるかもしれません。パウロは次のように言ってます。
「『キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた』ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」(Ⅰテモテ1章15節)
自分は本当に罪深い者だけど、イエス・キリストはこんな罪ある者を救うために来られた方だと言い表しました。私たちも胸に手を当てて、これまでの人生を思い返した時に、自分は正しい行いばかりで悪いことをしたことがないと言える人がいるでしょうか。パウロのように罪ある者と言わざるを得ません。
神は正しい方で罪をお嫌いになり、それを裁かなければなりません。しかし同時に神は愛なる方でもあり、そんな罪ある私たちを愛して今から2000年前に、この神の御子であるイエス・キリストを天からお遣わしになって下さいました。そして罪のないイエス・キリストに私たちの罪を負わせ十字架にかけてお裁きになることにより、正しい行いをしたくても悪いことをしてしまう私たちに、ただ信じる信仰による救いを与えて下さったのです。
聖書は過去も現在も未来も、私たちの罪の赦し・救いはイエス・キリストによってのみ与えられると語っています。
パウロが目から鱗が落ちる経験をした聖書の語る救いについて、集会にお越しになってお聞きになりませんか?