完全なゆるし

 現在、中東やアフリカでは、紛争が続いています。人は、苦しめられれば、その報復を考えます。世界の紛争は、絶えることがありません。そこには、残虐行為があり、それに対する報復が繰り返されます。人を赦すこと、それ以上に敵対する人を愛することは、非常に難しいことです。しかし、かつて、そのことが現実のこととして現されました。イエス・キリストの十字架には、その不可能なことが実現したのです。

 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。 −聖書−

 人は、その死に臨んでその人の本当の姿を現します。しかも、その死が苦しみの果てのものであるなら、その苦しみに目を留めるだけで、自分のことしか考えられないと思います。周りの人々の配慮を示すことは、もはやできないことです。それは、私たちが死に臨まなくてもいえることで、自分が病気で苦しんでいるとき、他の人のことを考えることは、難しいことです。

 イエス様の十字架の光景は、不思議なものでした。イエス様をねたむ指導者は、悪口を言い、あざけっていました。扇動された群集も、犯罪人としてあざけりを加えていました。そのような中で、手と足に釘を打ちつけられ、木に掛けられている人が、自分のことを考えていませんでした。むしろ、自分を十字架に掛け、あざける人々のために祈られました。着物を分ける彼らは、イエス様には無関心でした。死んでいく犯罪人として扱っているのです。そのよう中で、敵対する一人一人のために、むしろ彼らの犯罪行為に対する裁きを心配し、その人たちのためにとりなされたのです。

 イエス様は、人々を教えて言われました。

 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。・・・だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。 −聖書−

 敵を憎むことは、正しいことのように考えられますが、イエス様は、敵を愛し、その人のために祈るように教えらました。それをなすことは、神様が完全であるように完全になることであって、私たちに求められていることです。私たちは、それが非常に難しいことであることを知っています。しかし、イエス様は、十字架の上でそれを実現されました。それによって、この方が非常に深い愛よって一人一人を愛しておられたことを知ることができます。それとともに、この方が、神としての完全さを現わされたことを知ることができます。

 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。 −聖書−

 イエス様が十字架にかかられたのは、私たちが神の前に罪赦され、義とされるためすなわち正しい者とされるためです。罪のために神から離れた私たちが、神の前に回復し、幸いな交わりの関係に入るために、私たちの罪を代わりに負われて裁きを受けられたのです。人の裁きを代わりに引き受ける大きな愛の現れです。

 聖書は、神の愛を私たちに教えてくれます。聖書から学びませんか。