いのちの水

この水を飲む者は、また渇きます。(聖書)

 イエス様は、旅の途中、町の共同井戸で水を汲む一人の女性に話しかけられました。水を求めたのです。女性は、サマリヤ人であり、ユダヤ人とは親交のない、むしろ互いに嫌っている関係にありましたので、なぜ自分に水を求めるのかをイエス様に尋ねました。イエス様は、確かに旅の疲れで井戸の傍らで休んでいたのですが、彼女に水を求めたのは、話のきっかけを掴むためでした。イエス様は、水を求めていながら、彼女に対して、むしろご自分が生ける水を与えると言われました。彼女は、その生ける水は、この井戸の水よりも価値のあるものか問いました。その時、イエス様は、「この水を飲む者は、また渇きます。」と言われました。

 彼女は、自分の幸せを求める人でした。彼女の幸せは、結婚にありました。それが彼女の命であったのです。彼女の渇きを満たす水でした。しかし、彼女には、満足はなく、渇きが癒やされることはなかったのです。一時的な満たしはあっても、また渇くのです。

 幸せを求めたとしても、実際には、この世界は、理不尽なことが多く、また、悪い環境に生まれれば、生きていくことさえできません。世界では、20億人を超える人が安全な水を飲むことさえできないのです。そして、飢饉に苦しむ人は、7億人を超えます。わずかな幸せさえ手に入れることができない人が多いのです。

 そのような中で、幸いにも豊かさを享受し、さらには自分の願望が叶い、一生を終えるにしても、それで私たちは、満たされるのでしょうか。いえ、それで満足できるはずもありません。誰もが迎える最後を平安のうちに迎えることができるでしょうか。この水を飲んでも、また渇くのです。

 イエス様は、いつまでも生きる水を与えるのです。井戸の水が体を保つことができても、やがて人生の終わりを迎えなければなりません。私たちが永遠を望みとしない限り、渇きが癒やされることはありません。

 それが叶う時、もはや、満たされないことはありません。イエス様を信じた者には、永遠の望みがあり、喜びがあります。たといそれが回復の見込めない癌のような病気を患っていたとしても、その喜びは失われることはありません。渇くことがないのです。それは、イエス様を信じた者の経験してきたところです。

 聖書は、私たちが永遠の祝福を受けるための神からの手紙です。イエス様が一人の人を尋ね求めたように、今も変わらない愛によって、あなたを訪ね求めておられます。私たちが渇くことがない永遠の命を獲得するためです。ぜひ、聖書を開いてみてはいかがでしょうか。

しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。(イエス・キリスト)