いのちの尊さ

 平和な世界を望みながら、いまや世界を巻き込むような紛争によって、多くの尊い命が失われています。まして子供たちが巻き込まれ命をなくすことには、心を痛めます。誰もが命を与えられたならば、その命を繋ぎ、命を与えられた意義を全うすることを願います。誰も、自分がいらない存在であることはないのです。ひとりの人の存在は、尊いのです。

 しかし、人はその尊さになかなか気づきません。他の人を自分と同じように大切な方だと考えることができません。時として、自分で自分の存在価値さえないと考えることもあるのです。

 しかし、イエス様は、私たちを大切なものとして探し求めておられます。イエス様にとって、ひとりとして価値のない者はいないのです。「人の子は、失われた者を探して救うために来たのです。」と言われたように、神の前から失われた一人を救うために、探し求められる方です。聖書に次のように記されています。

 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った。そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。『あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。』(聖書)

 自分の価値観から、他の人の存在を否定してしまうことはよくあることです。例え話のパリサイ人たち、律法学者たちと言われる人々は、人々の目からは正しい生活をしていました。その彼らは、取税人や罪人たちを忌み嫌っていました。その罪人と見られている人々をイエス様が受け入れ、一緒に食事することに文句を言いました。しかし、神の前から迷い出た一人がイエス様にとって、また、神様にとって尊い存在であることを示されました。たとえそれが一人であっても尊いのです。

 次のようにも記されています。

 

 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(聖書)

 キリストは、私たちのために命を捨てました。罪人である者を神のみもとに受け入れるために、神の裁きを代わりに受けられました。神は、そこまでして私たちを愛しておられることを十字架という歴史の事実によって明らかにされました。私たちを永遠の祝福の交わりの中に回復するためです。

 人を真に尊い者としてご覧になっておられるのは神様です。

 聖書をお開きになり、その神の愛を知っていただきたいのです。集会では、聖書に基づいてお話をします。ぜひお越しください。