いのちのパン

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」  聖書

 イエス様は、御自分がいのちのパンであると言われました。命を与えることは、誰にもできないことです。飢えに対しては、食べ物を与えることで、ある程度は問題を解決できます。今、世界には、食べ物に事欠いて飢えている子供たちがたくさんいます。十分な食べ物は与えられていません。それは深刻な問題です。しかし、もし、その食べ物が用意されて、十分に食べることができるようになったとしても、なお満たされるためには必要なものがあります。体の健康が保たれても、私たちはなお、飢え渇くのです。

 私たちを真に満たすものがあるのでしょうか。持ち物や人の愛はいずれ過ぎ去るものです。健康もやがて損なわれます。肉体もやがては終わりを迎えます。そんな私たちを満たすものがあるのでしょうか。

 「わたしがいのちのパンです。」こう言われたイエス様は命を与えることができます。また、イエス様の元に来て、飢える者はありません。イエス様を信じる者は、決して渇きません。イエス様を信じた者には、喜びと平安があります。それは、病気や事故によって死に臨むことがあっても、損なわれることはありません。なぜなら、永遠の命を持っているからです。イエス様は、いのちのパンとして、私たちに真の命を与え、私たちが飢えることも渇くこともない者としてくださいます。

 

「神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」聖書

 神は、私たち一人一人を愛されて私たちに永遠の命を与えるために、イエス・キリストをこの世に遣わされました。それは私たちの救いのためです。神は、御自分のきよさに従って私たちを裁くのではなく、私たちを救うために御子を遣わし、十字架にかけられました。身代わりに裁くためです。そのイエス様を信じる者は、もはや裁きによって滅びることなく、永遠の命を持ちます。

 神は、私たちを愛された大きな愛によって、ひとり子をお与えになり、この救いを用意されました。自分の最愛の者を犠牲にして、他の人の幸いを図ることは私たちにはできないことです。しかし、神は私たちを愛してくださいました。

 永遠の命を持つことによって、死はもはや恐れではなくなります。私たちは、望みのうちに平安と喜びを持って生きることができる者となります。そこには、もはや飢えることも渇くこともありません。これが、イエス様によって与えられるいのちです。